プロフィール
はじめまして、平松 邦彦(ヒラマツ クニヒコ)と申します。
1986年(昭和61年 寅年)愛知県宝飯郡小坂井町(現 豊川市)で生まれ育ちました。
鈍器で叩かれたような腰痛・関節ネズミによる肘痛に悩まされた学生野球
小学3年時より少年野球を始めました。
何でも闇雲に頑張りすぎてしまう性格のため小学5年時にすぐ肘を痛めました。
投げると痛みが出てしまい1年間野球が思うようにできない日々を味わいました。
最も酷かった時にはランドセルを背負おうと肘を後ろに回すだけで痛みが走ったこと。
この頃、小学生なりにこれほど頑張っているのにどうして報われないのか?
という思いになっていたのを覚えています。
そしてなぜ痛みが出てしまったのか? と疑問を感じ身体のしくみに興味を持つようになるきっかけとなりました。
野球を続けているうちに同じように痛みに苦しむ人たちの姿を見てきました。
(腰を捻ると痛すぎてバットが振れない。ボールの投げ過ぎで肩が挙がらないなど)
しかし、そんな困っている仲間を見ても当時は自分がどうにかしたいとか自分が助けたいなどという大それたことは思いもせず、ただ他人事として聞いていました。(自分が痛い思いをしたのになんてことだ!!)
高校生になり、変わらず野球を続けていたが、ある日、試合中に腰をひどく痛めました。
痛めた場所はバッターボックス内。カウントはスリーボール・ノーストライク。
鈍器で叩かれたような痛みによってもう腰を捻るなど考えもできない状態でした。
運よくフォアボールになりなんとか一塁ベース上まで歩き(試合に出たいあまり、周りにはなるべく気づかれないようにしていた)、リードをとると、また先ほどの激痛が……。
あまりの痛みで一塁ベース上に立ちつくしてしまいました。その後、監督に現状を告げ交代となってしまったのです。
気づけば持病である腰の痛み・肘の痛みで野球の練習も満足にできなくなっていました。
そんな私を見かねた監督より、ある接骨院を勧めていただきました。
もともと病院や整形外科、接骨院などへ通う習慣もなく、「気合いでどうにかなるでしょ」と考えてしまう性格だったためあまり乗り気ではありませんでした。
しかし、監督の好意もあり練習後1時間かけて自転車で接骨院へ通うこととなりましたが、3回通ってもあまりよくならなかったことを理由に、そのままやめてしまいました。
他にも地元の整形外科や整体院など3か所ほど通うも思うように良くならず常に腰痛と戦いながら練習していました。
将来のことを考え始めた高校3年生
そして高校3年4月時、部活の帰り道にいつも通り友人と喋りながら国道1号線を自転車で並走していた際、狭い道になりハンドルが友人の自転車と絡まりそのまま転んで指を骨折し完全に良くなるまで2か月を要しました。
当時レギュラーになれるかどうかの瀬戸際であった私はすぐに監督へ報告しました。
すると返ってきた言葉は
「はい、残念でした」
とてもあっさりとした返事に茫然と立ち尽くしてしまったのを今でも鮮明に覚えています。
自分の無力さとやりきれなさを痛感しました。
そして10年間続けてきた野球の結末はベンチ入りも叶わず応援席で後輩を応援するという散々なものでした。
その夏、高校3年生の私は野球部を引退したが、それまで野球しかしてこなかったため今さら「受験勉強してやるぞ!!」という気にもなれず、大学受験を早々に断念。
受験を諦めたため余り有る時間ができ、今後自分は何がしたいのかということをそこで初めて考え、自分と向き合うようになりました。
今までの悔しい経験や苦い経験、上手くいかなかった結果を他の人にも味わってほしくない。
頑張っている人が報われてほしい、その手助けをしたい、自分の手でなんとかしたいという思いが少しずつ湧き上がってきました。
そして高校を卒業して接骨院の先生になるべく柔道整復師養成学校(接骨院の先生が持つ資格)に入学したのです。
毎日10時間、勉強漬けの専門学生時代
毎日一生懸命勉強をしました。
腰や肘など痛みのため頑張りたくても頑張れなかった野球生活とは一転、「頑張れる」ことが嬉しくて夢中で勉強しました。
しかし1・2年時は思うような成果がでませんでした。
結果をすぐに求めてしまう私はすっかり自信をなくし、試験の時にはプレッシャーで手が震えて思うように字が書けないほどでした。
それでも継続して勉強することで徐々に結果となり、周りには頼ってくれる人が増えていきました。
人一倍恥ずかしがりやな私だったが人に教えたり講義を終えた後に仲間内で集まって20人の前で授業(とは程遠いレベル?)をしたりすることで勉強以上の学びをそこで得ることができました。
大学卒、社会人経験者の方たちとともに学ぶことで人としても成長することができ、ここで出会えた仲間とは心の支えとして今でも何かあるときには連絡をとり、自分の進むべき道を正していただいています。
そして国家試験も無事合格し学校を主席で卒業しました。
妥協点の探り合い、整形外科勤務の下積み時代
その後、愛知県にある整形外科病院へ就職。机上では教わらなかった柔道整復学をそこでは学びました。
骨が折れて、手が反対方向に向いている小さい子を押さえ「殺す気か!!」と叫ばれながら、それでも折れた骨をもとに戻すために骨を引っ張って戻してギプスを巻いて、リハビリをして笑顔で帰っていただくという仕事に誇りを持ちながら働いていました。
この経験はとても貴重でした。
こんな私でも「先生」と言われ、頼っていただく方のために自分のでき得る最大限をそこに尽くしてきました。
まだまだ未熟者であった私は、休みの土日は良いセミナーや勉強会があると聞くと東京でも大阪でもどこにでも足を運ぶようになっていました。
何か良いものがないか、どうしたら良くなるかということばかりに目を向けていました。
しかし、思うように成果が出ず自分の力のなさを痛感するとともに、その頃思っていたことは「リハビリには限界がある」「結局はリハビリは妥協点の探り合いだ!」との思いになっていたのです。
痛みを訴えて来院する方は当然体のことに関する知識は素人であり少し勉強した私の意見と病院に勤めているという立場から何を言ってもそれらしく聞こえてしまうようになっていることに自惚れてました。
そこへ病院勤務3年目の時、ある理学療法士の先生と出会い、その瞬間にその先生の虜となりました。
縁あってその先生がいる職場で働くことになり、リハビリの奥深さと可能性を教わりました。
当時リハビリとは、「妥協点の探り合い」としか捉えられなかった私の頭を叩き割るかのように、その先生は真正面から向き合いそして人の体が改善していく姿を私は目の前で見てきて、この仕事を志した当初の想いが駆け巡ったのです。
仕事に向き合う姿勢、施術とは何か?
そして今自分のやっていることは、「家族が同じ状況になった時に、自信をもってそれができるのか?」と考えるようになっていました。
東京移住 ―自分には何ができるのか―
「自分とは何なのか、自分には何ができるのか、人にどういう影響を与えることができるのか」と考え、情報の量や速さに惹かれ東京に移住することとなりました。
(当時、妊娠6か月であった嫁と2歳になったばかりの子どもを愛知県において、単身上京することとなりました。今振り返ってみても、それでもついてきてくれた嫁には頭が上がりません)
東京に上京してすぐ、同じ想いのある数多くの仲間と業種を問わず出会うことができました。
そしてその仲間と環境を同じくすることで「施術家」として以前に「人」として生きていくためには何が必要なのかということを考え、2年もの間、悩み続けていました。
その2年間は暗闇の中をそれでももがき歩いているような感覚でした。(あの頃にはもう二度と戻りたくない!! 笑)
そんな人生の答えを探し彷徨いつづけている中、縁あって介護施設に就職することとなりました。
当時、介護事業は成熟期を迎えており道路には介護の送迎車で溢れていました。
介護施設に通う方々は「自分がこんなことになるなんて考えてもなかった」が口癖でした。
心身はもちろん経済面でも自由がきかなくなり、若い頃はなんでもなかったことが今ではもうできなくなっており「死にたい」という言葉をよく耳にしたのが当時の私はとてもショックでした。
自分の将来像と照らし合わせながら今後自分はどのような自分になりたいかがここではっきり明確になったのです。
「人に影響を与え続ける存在であり続けたい」
その中で、この平松邦彦ができることは何か?
またまた悩む日々が続きました。
今のままで良いのか? 今を続けていて20年後30年後に果たして満足のいく人生だったと心の底から思えるのかと本気で考えていました。
施術家として腰を据えた出来事
そして手あたり次第に情報を集めた、自分の理想像に合った仕事、自分に足りないものを補うために。
行動すればするほど周りからの非難の目は強くなったが、この頃はもうさほど気にならなくなっていました。
とにかく良いと思ったものはすぐスケジュールに入れ、行動に起こしました。
何もわからない、何をしたらいいのかわからないという不安は行動することで徐々に消え、動くことで自分の理想としていることがぼんやりと見えてきました。
そして、ある言葉に目を惹かれていました。
『カイロプラクター』
しかし、それまでは『カイロプラクター』というイメージは決して良いものではありませんでした。
しかも今までともに働いてきた同業者からも白い目で見られる対象のような言葉だったのです。
「そんなことやめときん」、「どうせバキバキやるだけでしょ」、「骨を鳴らしたって良くなるわけないじゃん」
自分がそこに足を踏み入れれば、当然そのような目で見られるのは目に見えてわかっていました。
誤解を解くには自分が結果を出すしかなありませんでした。
お世辞にも「良い」とは言えないこのイメージを一掃したのが、ある先生との出会いでした。
その先生はこの業界ではかなりの有名人であり、常に先頭に立って業界を牽引しているような人でした。
いわゆる「ゴッドハンド」だったのです。
私が惹かれたのはその「ゴッドハンド」という言葉ではなく、その先生が行った施術によって改善しているお客様でした。
「人ってこんなに変わるのかっ!!」
「誰が見ても明らかだぞっ!!」
「ここまでできるのかっ!!」
その瞬間、周りからどんな目で見られようが冷やかしを言われようが関係ない、私は「人に影響を与え続ける存在であり続けたい」と決めたのだから。
そんな先生のプロフィールに「カイロプラクター」と言う言葉が記されていました。
もう迷うことはありませんでした。
その先生が学んだ学校で同じように学び、私もこの先生のようにお客様へも同業者へも影響を与え、走り続けいく。
今後の方針
そして今の私があります。
自分を見ていると、ワクワクする、楽しくなる、何かチャレンジしたくなると思われる存在、影響力のある人になる。
逃げも隠れもせず堂々と今までお世話になったこの「愛知県豊川」という地で自分の持ち得る最大限の力を注ぎ、数ある整体院の中から縁あって来院していただいたお客様に感謝するとともに、一緒に痛みや悩みを解決していきたいと思うようになりました。
施術家として体を改善していく中で、影響を与え続け、体はもちろん心も豊かになることで「ここがすべてのきっかけだった」と思ってもらえるような院を作り、そして豊川一の整体院となるよう今日もまた精進していく。
私の今までの人生は人との出会いによってつくられています。
そのため影響を受けやすく人に流されやすい面があることも自覚しています。
未熟な私との出会いによりご迷惑をおかけしたことも何度かありました。
(未熟な私をそれでもお許しください)
しかし、何かのご縁で出会ったこの瞬間を大切にし、この出会いを心に刻むことで自分の成長としていきます。
ここまで読んでいただいた皆様に感謝致します。
実績
- 柔道整復師免許証取得(平成20年)
- 柔道整復養成学校にて主席卒業
- 業界歴7年(8年目)
- 施術総数のべ12,000人
- 日本整形外科学会 共同論文発表
- アキレス腱新鮮皮下断裂に対する保存療法の限界例でのエコー所見とその経過について」
- 病院勤務3年、整形外科・接骨院勤務1年、介護デイサービス勤務1年半